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根本雅也

理想と現実のはざまで思い切りあがくために――『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方』から考える

一橋大学専任講師 根本雅也

はじめに

本書は、論文におけるリサーチ・クエスチョンを設定する際のアプローチの仕方について説明するものである。だが、本書から学ぶことができるのは、望ましいリサーチ・クエスチョンのあり方や方法だけではない。理想的ともいえる方法を論じる中で、著者たちが描くのは、その背後にあるアカデミアの現状であり、研究者を取り巻く現実である。そのような現実を言語化し可視化する本書からは、アカデミアのあり方、あるべき姿についての思考も掻き立てられることになる。

そのため、本書を誰に読んで欲しいのかと問われれば、評者は(評者も含め)比較的キャリアの浅い文系(社会科学系)研究者、任期付ポストの研究者、ポスドク、そして特に博士後期課程に在籍する大学院生、と答えたい。今のアカデミア(学術界)の中で、ポストを求め、生き抜こうとしている人びとである。

評者が本書と出会ったのは、評者がリサーチ・クエスチョンの重要性を再認識し、それをどのように伝えるべきか(教えるべきか)、迷っているときであった。授業や学会活動を通じて大学院生と接する機会が増える中で、リサーチ・クエスチョン、問いの重要性を伝えるようになった。だが、その重要性を説明しても、具体的にリサーチ・クエスチョンをどのように設定できるのかについては、うまく説明ができない。そのようなとき、本書の存在を知った。

目を引いたのは真っ赤な装丁だけではなかった。一つは「面白さ」について強調する姿勢が容易に見てとれたことである。タイトルに「面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョン」とあり、帯には「なぜ『一流誌』の論文は退屈でつまらないのか?」と記されている。本という媒体に比べて、投稿論文は自らが書く場合でも、あるいは読者(ときには査読者)として読む場合でもなかなか「面白い!」と思えないことが多い。「投稿論文だから仕方がない」と半ば諦めつつも「これで果たして良いのだろうか」と繰り返し自問していた。アカデミアで就職を目指すならば、学会誌・ジャーナルへの論文投稿は、純粋に「書きたい」という思いだけでなく、「書かなければならない」ものでもある。そのような状況の中で、どのように「面白さ」を追求できるのだろうか。

評者を本書に引きつけたもう一つは、訳者・佐藤郁哉氏の存在である。質的調査を実践し、今は教える者として、これまでに佐藤氏の著作にたびたび触れてきた。『暴走族のエスノグラフィー』は「なるほど、このような調査研究もありえるのか」と素直に驚き、楽しんだ。つまり評者に「面白さ」を感じさせてくれた研究者が本書を訳しているのだ。そこにはリサーチ・クエスチョンの作り方という単純な「ハウツーもの」ではない、何かしらの意義とメッセージがあるように思われた。


1. ギャップ・スポッティングと問題化――リサーチ・クエスチョンをつくる二つの方法

本書を要点だけ取り出すならば、それは非常に明快である。イントロダクションにあたる第1章で本書の概要が述べられていることに加え、最後の章となる第8章においても本書の内容がまとめられている。巻末には訳者による解説も付されている。これら三つをざっと読むだけでも、大要を掴むことは可能であろう。それは次のように整理できる。

学術誌に投稿され掲載された論文を調べると、ギャップ・スポッティング的なアプローチでリサーチ・クエスチョンを作成しているものが圧倒的に多い。ギャップ・スポッティング的なアプローチとは「先行研究の中に従来見落とされてきた課題領域」といったギャップ(隙間)を見出し、それを埋めようとするものである(第3章)。しかし、その方法は「既存の理論や先行研究の根底にある前提」を再生産する傾向にあるため、「面白い理論の開発」にはつながりにくい(第4章)。そこで、著者たちが提唱するのは問題化のアプローチであり、それは「先行研究の根底にある前提に挑戦する」ものである(第5章)。

本書の第一の主張であり、読者が本書から学ぶことができる一つは、「面白い」リサーチ・クエスチョンを構築しうる問題化のアプローチであろう。著者たちは、第5章で、ギャップ・スポッティング的な方法に代わるものとして問題化の方法を提唱し、その類型や実践する上でのポイントなどについて説明する。そして、続く第6章では問題化の方法の実際の適用例として、組織におけるアイデンティティ、ジェンダーの実践・滅却実践という二つの研究領域を取り上げる。「先行研究の根底にある前提に挑戦する」問題化の方法を学ぶことは、「面白い」論文を自らの手で世に送り出したいと願う者たちにとって有益であろう。

本書から学びうるもう一つはギャップ・スポッティングの方法について理解することである。これは明らかに本書のねらいと願いとは逆ではある。第3章では、社会科学系の4分野(経営学、社会学、心理学、教育学)の代表的なジャーナル10誌を取り上げ、研究者が先行研究との関連でリサーチ・クエスチョンを構築する際の典型的なアプローチを実証的に検討する。そして、典型なアプローチがギャップ・スポッティングであることを指摘し、その諸類型について説明する。また第7章ではなぜギャップ・スポッティングが隆盛となっているのか、その背景について説明される。ギャップ・スポッティングの方法は、著者たちによれば「面白い」論文を生み出すものではない。しかし、現在のアカデミアにおいて生き残ろうとするならば、理想だけを追い求めるのではなく、ときに現実に向き合うことも必要であろう。ポストを得られなければ、「面白い」論文を生み出すという理想を追求することすら許されないのだから。


2. アカデミアの理想と現実のはざまに生きること

本書の第7章は現在のアカデミア(学術界)を取り巻く状況──現実──を教えてくれる。「なぜ、面白い理論の構築にとって逆効果でしかないギャップ・スポッティング的なアプローチが支配的になっているのか」という章のタイトルが示唆するように、この章では「なぜ我々は、これだけ多くのそれほど面白くもない、あるいは面白いところなどまったくないどころかむしろ退屈でさえある研究をおこなっているのであろうか」という疑問について、学術界の状況に目を向ける。

上記の状況を作り出している要因の一つとして本書が挙げているのは、さまざまな組織や機関において、研究業績を評価する際に「特定のジャーナルリスト」が用いられていることである(p.179)。それにより、研究者は「先行研究の根底にある前提」に挑戦し独創的な知識を生み出すのではなく、「特定のジャーナルに自分の論文が掲載されることの方を優先して全精力を傾ける」ようになる。そのために、ギャップ・スポッティング的な方法を採用する。そうして「ギャップ・スポッティング的なハビトゥス」を身につけた研究者は、今度は査読者として、指導教員として、それを再生産していくことになるだろう。

このような現状に対して、本書は痛烈な(だが悲痛な)批判を加える。

実際、多くの[社会科学系の]分野の研究者が目指しているのは、斬新で挑戦的かつ実践的な意義のある研究を志す真の意味での研究者になることなどではない。彼ら・彼女らはむしろ、できるだけ多くのジャーナル論文を製造することを切望する、それぞれの下位領域におけるギャップ検出作業のスペシャリストになり果てているのである。その人々にとってのアイデンティティの拠り所は、独創的な知識や学術知に対する独自の貢献などではない。むしろ、どれだけの本数の論文をどのジャーナルに掲載できたかという点が主たる関心事項なのである。〔中略〕つまり研究者は、実際の研究が果たし得る貢献よりも論文の発表媒体に関心を持ち始めてしまうことになるのである。(p.186)

ギャップ・スポッティング的な方法の隆盛は、学術界そのもののあり方が背景にある。上記の批判に表れているのは、ジャーナルに論文を投稿し掲載されることが、自身の研究の成果を発表する〈手段〉ではなく、〈目的〉となってしまっているということだ。「この研究の成果を世に問いたい」という以上に、「(投稿)論文をジャーナルに掲載したい」という欲望が目の前の課題になってしまうのである。それは主客転倒であるようにも思える。

投稿論文をめぐる主客転倒は、研究に効率性を要請する。すなわち「できるだけ多くのジャーナル論文を製造することを切望する」研究者にとっては、限られたリソースの中で、最大限の成果(「どれだけの本数の論文をどのジャーナルに掲載できたか」)を目指すようになるだろう。研究の「コスパ」「タイパ」が関心事項となるのかもしれない。しかし、少なからぬ社会科学の研究者たちは、こうした効率性を追求する社会のありようを批判的に検討してきたのではなかったのか。にもかかわらず、いまや効率性という規範が自分たちの生きる学術界すら覆いつつあるように感じられる。

本書はアカデミアの現実を知らせてくれる。それはその世界で生きていこうとする大学院生や若手研究者にとって決して輝かしいものではない。しかし、自分たちの置かれている世界を言語化し可視化してくれることには意義がある。それは単に自分たちが置かれている状況を理解する助けとなるからだけではない。それは、現在のアカデミアのあり方が必ずしも自明ではないこと──唯一絶対であるわけでも最善であるわけでもないこと──も教えてくれるからである。それはいかに強力で、簡単には覆らないものであったとしても、変わらないわけではない。そして何より著者たち(そして本書を日本に紹介する訳者)のように「面白さ」を大事にする人びとがいる。このように考えるならば、本書は、アカデミアの現状を知らせるのみならず、学問のあり方、あるべき姿について再考を促しているようにも思われる。

現在のアカデミアで「面白さ」という理想だけを追求することは容易ではない。だが、現実だけを見据えては、何のために研究をしているのかが見えにくくなる。アカデミアの理想と現実のはざまでどう生きるのか。そのような問いを本書は読者に投げかけているように思う。

以上は評者が本書を読んで考えたことである。他の研究者は異なる見解を持つかもしれない。このことは、本書が議論の触媒となる可能性を持つことを示唆する。つまり、本書は、本書をもとに自分たちの置かれている状況やアカデミアのあり方について議論する素材となりうるということだ。たとえば、大学院生や若手研究者のワークショップや研究会などにおいて本書を取り上げてみてはどうだろうか。本書を読み、感じ、考えたことを共有することは、自分たちの取り巻く世界をさらに可視化し、解像度を上げることにつながるように思う。そして、おそらくは、その中で学問の持つ「面白さ」もまた再確認されるのではないだろうか。要は、理想と現実のはざまでどのように生きるのかについて、一人で考えるのではなく、仲間とともに考えるということである。


3.「面白い」研究を目指して――質的調査の可能性

そもそも「面白い」論文・研究とは何であろうか。本書の第4章は、理論の「面白さ」とは何かについて論じている。通常、「面白さ」とは個々人によって異なるものだ。しかし、著者たちによれば、「面白さ」とは「決して個人的な意見だけに左右されるような問題」ではなく、「一般的な性格」を有する(p.72)。それは、「その理論が何らかの重要な点で既存の理論の根底にある前提に対して挑戦を突きつけている」ことであり、「面白さ」を感じるのは「紛れもなく自明の事実のように見えることが実際には事実ではない」と知るときなのである。つまり、私たちが自明視していたもの(それはその個人や集団によって変わりうるものだが)を否定すること/されることが「面白さ」の重要な要素だといえよう(1)。

「面白い」論文を作成するための方法として、著者たちは問題化のアプローチのほかに、もう一つの方法に言及している(第8章)。著者たちはデータ、経験的資料(empirical material)の活用に注目する。経験的資料には、「既存の前提を再生産して強化する傾向」がある一方で、「常にある程度は、理論的枠組みの一部および研究全体の根底にある前提の枠組みの前提とは矛盾するような側面が含まれている」(pp.223-224)。そこで、著者たちが提案するのは、謎(ミステリー)を作り上げ、それを解明するという謎解きの方法論である。ここでの「謎」とは「予想を裏切り、研究者を(一時的な)当惑と方向感覚の喪失の段階へと導く経験的知見」(pp.224-225)であり、「それを解いていくためには、確立された前提や常識の枠組みからはみ出した一連の新しいアイデアが必要になってくる」(p.225)。

謎を含んだ経験的資料に出会えるのはどこか。質的調査を実践し、教える者として、その答えの一つは〈フィールド〉だと訴えたい。謎解きの方法は、フィールドワークやインタビューといった質的調査と親和性を持つ。たとえば、社会調査論や調査史に関して多くの著作を持つ川合隆男は次のように記している。

私たちの関わる社会的現実は、固定したものではなく、絶えず動態的で創発的で柔軟で多様なものであり、固定した限定された観念や枠組み、単なる対処では把握し得ない。そこではフィールド・ワーク、フィールド・リサーチを倦まず絶ゆまず(ママ)(楽しく)試みることが求めらる。人々の生きるフィールドでの探究、それは人間そのもの、泣き声と笑い声、語らいと沈黙、仕事場、遊び、教室、雑踏、道端、祭り、野原、天空、慣習、役所、老い、結婚、家族、暮らし、仕事場(ママ)、産業、生と死、戦い、病、医療、介護、災害、夢、など人間が果てしなく関わり繰り広げる人間関係の諸状況に自らをおき、これまで身につけた所与・前提的なものを相対化して自らの体と五感で自らの情感・体験・観察・着想・判断などを確かめ直していく作業である。既成の通念や知識を相対化して、自らの野生の情念や知を育てていく試みである。(川合 1999, p.229)

フィールドに出かけ、そこで調査を行うことは、多くの出会いを経験することになる。そうした出会いは、しばしば自分が身につけていた前提や常識に留保を投げかけ、ときに壊す。それにより、先行研究が自明視していた前提を問題化することもある。評者もまたそのような出会いを経験しているが、自身の経験をもとに論じることは別稿に譲り、ここでは、質的調査が「面白い」論文や研究へとつながる問題化や謎解きのアプローチとの親和性を持つこと、それゆえに「面白い」論文・研究を生み出す可能性を多分に有していることを指摘するにとどめておきたい。

 
おわりに

本書は一見「ハウツーもの」である。しかし、それだけではないし、それだけにしてはいけない、と感じる。というのも、その内容を考えれば考えるほど、本書が学知を対象とした調査研究の成果であることが分かってくるからである。アカデミアの現実はどのようなものか。理想はどうあるべきか。そして、そうした現実と理想のはざまで生きざるをえないのだとすれば、その中でどのようにあがくことができるのか。そうした問いについてあらためて考えさせてくれた本書に感謝したい。


[註]
(1) Davisによる「面白さ」の指標が、本書p.237の「付録」として掲載されている。これらに目を通すと、「一見〜のようにみえるものが、実は…である」という形式になっている。評者は、以前、論文の「面白さ」について「意外性」と指摘したことがある(JOHA編集委員会 2021, pp.219-221)。


[参照文献]
JOHA編集委員会(2021)「JOHA編集委員会主催ワークショップ『良い論文』を書く」『日本オーラル・ヒストリー研究』第17巻, pp.213-229.
川合隆男(1999)「訳者 あとがき」シャッツマン,L.,ストラウス,A.L.『フィールド・リサーチ──現地調査の方法と調査者の戦略』慶應義塾大学出版会, pp.225-234.

ねもと・まさや
一橋大学大学院社会学研究科・専任講師

本書評は白桃書房ウェブサイト「社会科学研究の持つ力」からの転載です。
https://topic.hakutou.co.jp/study/archives/653

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